吉川熊野神社

 ★古事記録によれば・・・・。
この地域が「吉川」と言う地名になったのは、吉川氏による吉川城築城(一三九七年)からと考えられる。熊野神社も吉川城築城と共に創建されたと考えられている。

【吉川熊野神社】
 吉田町中ノ坪脇六七番地に所在し、[事解之男神]、[伊那国美命]、[速玉之男神]の三柱を祀る。創建年代は不詳であるが、古記録などによると、応永四年(一三九七年)吉川城の築城と共に創建されたのではないかと考えられている。清涼寺の縁起に、永禄一〇年(一五六七年)熊野神社の西隣に清涼時開山普済寺(東海市加木屋町)の三世桃林有仙和尚が阿弥陀堂を創立し森脇山宝珠院と称したとあることから、すでに氏神が存在していたと考えられる。
 所蔵する棟札のうち、享保三年(一七一八年)他の、数枚に「当社大明神」とあって、[寛文覚書]にみえる「一、社ニヶ所内、明神,山神」の明神に該当すると考えられる。

 明治期の棟札に「遷宮之僧大里村弥勒寺現住」とあり、弥勒寺の支配下に置かれていた事がわかる。古来より熊野三社権現と称されたが、明治八年三月二〇日熊野社に改称され、昭和四九年熊野神社に再度改称された。明治五年に村社に列せられ、明治四一年神饌幣帛供進神社(旧社格)になった。
 現在の本殿(権現造)、祝詞殿、拝殿は昭和四九年四月に鉄筋コンクリート造りに改築され渡り廊下で社務所へと続く構造になっており、まわりの森や境内、参道の階段とすばらしい環境を整えている。
 境内には神明社、山之神社、御獄社、洲原社、津島社、秋葉社、が祀られており、境外には弁財天社(吉川城跡に祭神厳島社)、行者堂(通称行者山に祭神役行者)がそれぞれまつられている。

【正官墳】
 吉川城西隣、正官田に正官墳がある。地域では昔から「歯の神様」として参拝する人も多く、吉川城主吉川将監入道の墓と言われている。
 
   【吉川城跡】
 吉川城は、清涼寺旧記によると、応永四年(一三九七年)吉加波(吉川)将監入道が築城し、居城していたと言われている。その後、花井氏の居城となった。花井氏の先祖は花井播磨守信忠であり、寺本(知多市八幡町)にも堀之内城を築いて居城としていた。花井氏の五世播磨守平次の子勘八郎ははじめ吉川城主であったが、天正八年(一五八〇年)堀之内城へ移った。
 吉川氏の始まりは駿河の国(現静岡県)入江壮吉香邑(キツカムラ)へ入江馬三郎景義の子で吉香三郎と称し、後に吉川経義と名乗り吉川氏の祖先で鎌倉時代の武将である。この子孫が吉川城を築城し、花井氏に城主が代わるまで居城し後、中島郡祖父江村に移った。
 花井氏は花井家系図によれば、慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いのおり、志摩国羽島城主九鬼大隈守喜隆によって、西知多が攻められて、その時堀之内城を落城した。花井播磨守勘八郎は長男の清捨と共に、信濃国竹佐郷へ逃れ、後に尾張国知多郡へ帰り、波月村(半月村)南隅の地(通称米田)に住み、余生を送ったといわれる。花井清捨ての墓と位牌は米田の天性寺にあり、現在も花井家一同が集まり供養をしている。
 吉川城は天正二年(一五七三年)廃城しなくなり、今は国道一五五線沿いに「吉川城跡」の碑が建っている。

    
[社宝 お神輿]
 

[子ども お神輿]

[社 宝 お神輿]
 天保四年(一八三三年)から天保七年まで続いた飢餓の中で災害防止と豊作を乞い願う村人が、氏神に救いを求め、苦しい中から天保七年(一八三六年)に名古屋の桂町吉野善八に築造させたお神輿。この神輿は屋根が二層になったもので明治初期の頃まで祭礼時に若衆が村中を練り歩いていた。いつの頃から破損して放置されていたが、昭和五五年修復復元をされ修復記念で例大祭の時地域内を練り歩いた。現在は社宝として拝殿に保存されている。
  
 

 
 

● お 店 の 位 置 図 ●

吉川熊野神社  愛知県大府市宮内町4-235  
tel. (0562)47-8878

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